春ゆきて葉桜の頃

心の中には他者が座れる椅子があるのだとどこかで読んだことがあります。
生きて出会ういろんな人たちは、かわるがわる心の中の椅子に座る。
しっかりと腰掛けてしばらくそこにいる人もいれば、
ほんのいっとき、ちょっとお尻をつけただけで去っていく人もいる。
椅子の数は一定ではなく、向きも形も大きさも不揃いで皆が思い思いに座っているのだと。
でもそれは生きている人のための椅子で、この世にいない人の椅子は他の誰かが座ることなく、
その人のためだけに用意されると、そう書かれていました。
3月4日、父が息をひきとって、私の中には父のための椅子ができました。
父の椅子は、いわゆる社長椅子。黒い合皮がツヤツヤと光る、夏でも触るとひんやりしていて、
座るとふかっと受け止めてくれるそれは、かつて父の愛用品であり我が家での指定席だったものです。
私はその椅子のことを、本当に久しぶりに思い出しました。
父が入院して約2年、初めて病気のことがわかってからはもう10年近く。
一人での生活が難しくなった時に引っ越しと共に処分し、以降すっかり忘れていた椅子でした。
私は今、懐かしいあの椅子のことをはっきりと思い出せます。
手触り、座った感じ、使い古して出来た傷から破れて覗いていた下の生地の色、ほつれた糸の具合を。
そしてそこに座ってテレビを観たり本を読んだり音楽を聴いたり、うたた寝をしたり、
声をかけると重い瞼をあげて私を見上げた父の眼差しまで。
これまでずっと、誰かを亡くすということは失うことなのだと思っていましたが、
こうして取り戻すこともあるのだなあ、と今は思っています。

椅子の話は、ひとつの『物語』です。
大事な存在を見送って、寂しくても悲しくても、一緒には行けない誰かのための物語。
写真の中の表情が今日は違って見えたり、皆で思い出話をして笑う時ふいに風が窓を鳴らしたり、
そういったことのひとつなのだと思います。
元気な頃ばかりを思い出すのは、見る影もなく痩せてしまった晩年の父を見ていて辛かった気持ちを
そっと覆い隠そうとする心の作用なのだろうと感じてもいます。
でも物語とわかっていてもそれを心のよりどころにし、
慰められながらこれからの日々生きていくのだと思います。
なくしたり、出会ったり、失ったと思っていたものを見つけたり、
忘れたり思い出したりしながら生きて、
いつか私も誰かの心に椅子を置いてもらえたらいいなあ、と思います。

I原