風に選ばれた帽子

風が強いことはわかってた。
首紐もしっかりとめていた。
それなのに、不意をつき一瞬の風は、私の帽子を持ち去った。

登山用の、鮮やかなオレンジ色のハット。
大切な人にもらった、大切なものだった。
帽子はふわっと舞い上がり、柵を越え、3メートル先に落っこちた。

そこは立ち入り禁止の区域。
阿蘇の火口は、直径600メートル、深さ130メートル。
足元から10メートルほどは45度くらいの斜面で、その先は目も眩むような崖。
たった3メートルのなのに、私と帽子との距離はなんと遠いことだろう。
たった3メートルの距離が、光年の彼方のようだった。

展望台にはたくさんの人がいたのに、帽子を飛ばされたのは私だけだった。
なぜ私だけ?という気持ちで立ち尽くした。火の神が、あの帽子を欲したのか…

離れがたい思いでその場を立ち去った。
灰色の斜面にポツンと残された帽子のオレンジが目に焼きついた。

その夜、阿蘇の星空を眺めながら帽子のことを思い出した。
手が届きそうな満天の星が彼方にあるように、あの帽子も、はるか彼方へ行ってしまった。

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